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関口流抜刀術(いあい)(新心流)

開祖関口弥六右衛門氏心柔心(うじむねじゅうしん)(1596〜1670)は徳川家の家人として育ち、長じて松平飛騨守(ひだのかみ)に仕え、本多甲斐守(かいのかみ)に招聘されたのち 寛永十六年(1639)に紀州徳川頼宜(よりのぶ)に客分として待遇された。初代八郎左衛門實親業魯伯(さねちかうじなりろはく)(1630〜1716)は紀州藩指南役を拝命する。
和歌山市では無形文化財に指定されている。八郎左衛門の門人松代藩主真田伊豆守により松代藩へ伝承する。弟頼母氏宗は伊達家指南役を拝命する。氏宗の子彌太郎
氏暁(うじあき)は寛永御前試合に出る程の名人勇士で武蔵、小次郎とも対戦し、将軍家指南役に推挙されるも固辞する。関口氏族は清和源氏八幡太郎義家の流れをくむ誉れ高き名門で、祖父の初祖関口刑部大輔氏広親永(ぎょうぶだゆううじひろちかなが)は戦国大名今川義元の妹婿で、徳川家康正室築山殿(つきやまどの)は娘でありつまりは家康の義父にあたる。桶狭間の合戦時は京で義元の上洛を待ち討死はまぬがれたが、徳川今川不仲後疑念を持たれ自刃する。氏心の父刑部大輔氏幸(ぎょうぶだゆううじゆき)は今川氏滅亡後家康長男信康の側近に侍したが、信康がその室(徳姫)の父たる織田信長により切腹せしめられた後、松平上野介(こうずけのすけ)の家臣となる。柔心は日本柔術の祖とも記される程の名流で、居合、剣術、馬術、槍、薙刀、祖討の法、中国拳法、捕縛等武芸十八全般に秀でた戦国剣豪を代表する生粋の武人である。甥弥五右衛門氏成(うじなり)によって彦根藩に伝わり、井伊直弼(なおすけ)は希有な剣客で新心新流を興した。弥左衛門頼宜によって小関口流と称され柔新心流の名で尾張徳川家へ伝承する。井沢長秀が澁川義方から学んで肥後細川藩へ伝承する。また、甥の関口氏成の系統は和新心流と呼ばれ、徳川幕府の庇護の下、江戸三大流派のひとつとされ、西尾藩、南部藩、伊達藩、因州池田藩、桑名藩などに広く伝承されていった。
剣技は肥後栫朱鞘の長刀を帯刀し静淵から激越に変化する美技の連続で、
一度(ひとたび)抜けば一刀のもとで敵を倒す電光石化の剣である。また、戦国時代の太刀抜き刀法を継承する希有な流派である。単に「居合」といふが関口流のみは抜刀といひ、他流は凡て皆居合といへり、坐したままで佩刀を自由に引抜き敵を斬り又は敵と戦ふ術、一に「抜刀(いあい)」といふ(肥後武道史)、一名肥後流とも呼ばれる。津軽十二代藩主承昭(つぐあきら)宗藩肥後熊本細川藩御流儀、津軽十一代藩主順承(ゆきつぐ)宗藩尾張徳川家御流儀で津軽藩とも有縁の流派である。五代藩主信寿夫人は家康の娘亀姫の孫で津軽家と血縁関係にある。

ギャラリー

松平和泉守西尾藩宗家

この系統では、氏心ではなく氏成を祖としている。
初 代 関口弥五衛門氏成
二 代 久世十太夫
三 代 山路甚左ェ門
四 代 志賀太弥兵衛
五 代 熊倉彦衛門
六 代 猪川弥左ェ門
七 代 坂田蔵平治
八 代 鈴木助次郎
九 代 稲垣雄之助
十 代 亀谷鎭
十一代 山田昌孝
十二代 早川久ェ門尉尚彦
    淡路守藤原朝臣清龍

関口流抜刀術
初 祖 関口刑部大輔氏広親永
開祖父 関口刑部大輔氏幸
開 祖 関口弥六右衛門氏心柔心
初 代 関口八郎左衛門源實親氏業魯伯
二 代 澁川伴五郎橘義方
肥後熊本細川藩師範
三 代 井沢十郎左衛門源長秀
四 代 井沢十郎左衛門源長勝
五 代 井沢政右衛門源長明
六 代 大里右金吾宇治惟翰
七 代 井沢十郎左衛門源長保
八 代 井沢勘兵衛源長常
九 代 谷久左衛門源永勝
十 代 匂坂平右衛藤原正常
十一代 谷十三郎藤原永質
十二代 野田甚内藤原氏種
十三代 大石永勝藤原永勝
十四代 青木規矩男藤原勝久鐵心
十五代 亀谷鎭氏久
十六代 山田昌孝玄心
十七代 早川尚彦藤原朝臣清龍
    尾張徳川藩士早川久ェ門尉末裔

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